「小学校映画」論
原点を描く,ということ
小学生の頃、僕は毎日、友達の家に遊びに行っていた。家にテレビゲームはなく、塾に通った事も一度もなく、本当に毎日、遊んでいた。子供は遊ぶもの、学校の勉強以外は遊べばいい、というのが僕の父親の無言の教育だったが、僕もその哲学はそのまま受け継いでいる。いろんな友達の家に遊びに行って、いろんな違いを自然に学んだような気がする。友達がラーメン屋の家、喫茶店の家、建築業の家、裕福な家、貧しい家、いろいろだった。友達の家がどんな形だろうと気にもせず友達は友達、家はおまけのような感覚だった。違っていて当たり前、友達の家で食べさせてもらう、おやつや晩ご飯は、特に自分の家と違っていて面白かった。
小学生映画を作れば作るほど、人間にとって大切な原点が見えてきて、僕自身、今後発表していく作品は家族をテーマにしたものに向かっていくと思う。今まで極悪非道な映画の企画をたくさん用意していて、作ろうと思えばすぐに出来るのだが、そんな映画を作るには人生むなしすぎるし、人生短い、と思うようになった。それよりも人間の原点を描く方がよっぽど面白くて刺激的だ。
よその家のカマのメシを食う。これが人生においていかに重要な事か、映画で表現したいな、と思っていた時に四条小学校の白石先生と出会った。先生とは何から何まで徹底的に話し合った。話の食い違いがあっても、それは小さな部分で、晩ご飯シーンや、「たいぞう」というキャラクターの造型は最初から最後まで意見一致だった。この2ヶ月、僕と先生は、漫画家(石原)とその担当編集者(先生)のような関係で、僕からすればこの2ヶ月は5年分くらいの価値があった。これを言ったら失礼だが先生の一番向いている職業は出版業界だと思います。特に編集業務に。新人漫画家や新人作家を担当編集させたら、おそらくピカイチでしょう。しかし、だからこそ、先生のような方が小学校におられる事は重要だと思うし、僕からすれば新しい未来を感じます。
どんなに時代が進もうが、情報手段が便利になろうが、人間の原点を忘れてはいけません。他人の事がよく分からない、他人を不必要に警戒する、他人を自分以外の情報で判断する、現代日本人がはまりやすい、それらの精神構造は単に子供の頃から違うものにふれていなかっただけなのだと思います。今回の映画作りで子供達が「新しいもの」にふれたと感じてもらえたなら、僕は幸せです。
映画監督 石原貴洋