「マッドマックス」論
「マッドマックス」第1作目(1979年製作)と同じ年に誕生した石原は、この映画と一緒に成長した。
幼稚園の時に「1」と「2」を見て、それはもう衝撃としか言いようがなかった。特に「2」の世界観は強烈で、幼少の頃の自分はうまく言葉にできなかったが、大人になった今、自分で当時の気持ちを振り返ると
「地球って、ふたつあるんやな。もうひとつの地球の話やな」という印象だった。
「2」は、ただのフィクションではなく、実際にもうひとつの荒廃した地球から届けられたドキュメンタリーテープ、という感覚があった。画面に写る、ひとつひとつがリアルすぎたのだ。
汚い道路、そこに転がる廃車たち、延々と広がる砂漠。
「1」ではピカピカだった黒のV8インターセプター(追跡専用車両)が「2」では汚れまくり、タイヤもかなりすり減り、マックスの服装も機能的だがボロボロ、追いかけて来る凶暴な族たちも正気じゃない格好と改造車で、冒頭から世界が狂ってしまった事を見せつけられたのだった。クラッシュした改造車から、こぼれたガソリンをマックスが皿とヘルメットで貯めるシーンは、映画史上最高の名シーンと言えるだろう。ガソリンが貴重品という状況を言葉で説明せず、映像で説明する所が映画の美学として素晴らしい。
監督のジョージ・ミラーは、なるべくムダな説明を省き、セリフも最小限にし、最悪、字幕がなくてもストーリーが分かってしまうくらい、シンプルなストーリー展開にしている。それは最新作「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(タイトルは原題のFURY ROADにしてほしかった!)でさらに進化している。冒頭でフュリオサ(シャーリーズ・セロン)がボスを裏切る所から物語は始まるが、なぜ裏切ったのか、過去に何があったのか一切説明がない。裏切る直前まで、ハンドルを握るフュリオサの表情に緊張と覚悟が見え隠れしていた。説明はない。が、しかし、フュリオサは長らくこうやって何年もボスの命令に従って信用を得てきたのだろう。という事は分かる。それでいいのだ。
主人公マックスも全然喋らない。一匹狼で生きてきたのだ、喋らなくて当たり前だ。でも、冒頭とラストでは、マックスの心境は変化している。人を避けてきたのに人と関わるしかなくなり、最後は人間らしい部分を見せ出した所で終わっている。これは映画で英雄を描く上では欠かせない法則・鉄則のようなもので、「2」と「怒りのデス・ロード」では統一した設定ともいえるだろう。
「2」のマックスのひねくれっぷりは見上げたもので、自分の愛車・インターセプターからガソリンを奪われるくらいなら、爆破しちまえ!という見事な根性を見せている。誰も信用しない、誰とも関わりたくない、盗りはするが、盗られるくらいなら爆破する、と。インターセプターの下にナイフを隠すくらいの用心深さは、「怒りのデス・ロード」でも引き継がれ、フュリオサがトラックの側面にベレッタを仕込んでいたり、ミッション・ギアがアイスピックになってたり、トラックを奪われても他の人間には運転できないキル・スイッチが入ってたりと、ジョージ・ミラーが作り上げるひねくれ世界は最新作でも健在だった。
「2」以降、世界のありとあらゆる映画人がその世界観を真似しようと試みたが、ジョージ・ミラーに敵わない最大の理由はその、ひねくれさだろう。ひねくれの思考が優れた脚本を生み出し、凶悪なキャラを生み出し、魅力的なマシーンを生み出し、そして世界を生み出す。ハリウッド映画でよくあるご都合主義の、主人公が簡単に助けたり助けられたりの展開を見事に回避している。水平2連ショットガンの弾をやっと手に入れ、撃ってみたら不発。こんな格好悪いシーンを平気で見せてしまうのだから大したものだ。
「2」でマックスのもとに野生児がなついてくるが「しっ!あっちいけ!」と追い払っている。あんなひねくれた主人公はそう見れるもんじゃない。他の映画なら主人公の方から子供に歩み寄って、なんとか子供の心を開かせようと腐心するに違いない。ジョージ・ミラーはそういった甘さを見せないのだ。そうじゃなきゃ、3部作もある英雄マックスを、最新作でいきなり囚われの身にさせて、しかも「輸血袋」扱いさせて、やっと自由の身かと思ったら、まだ鎖にドアと人間が付いているという情け容赦なしの展開なんだから、見事としか言いようがない。ひねくれ美学ここに極まれり、ですね。
石原にとって全世界映画の頂点に君臨する映画が「マッドマックス2」になる訳ですが、その理由はCGやVFXに頼らない、生身のアクションの面白さ、実写映像で終末世界を見せる面白さのひとつの到達点だと思っているからです。
あえてその真逆の例を挙げると「マトリックス・リローデッド」が典型的かもしれません。ハイウェイのカーチェイスシーンは、わくわくして大変面白いのですが、心のどこかで冷めている。デジタル処理ですね、と。キレイに繋いでますね、と。本当の面白さって、そこじゃない気がします。制限や工夫の中から面白さは生まれるものだと思うのです。
「マッドマックス2」の場合だと、凄いSFは見せられないけど、とりあえず車をかっ飛ばそう、車は全部ドロドロに汚そう、地面ギリギリでカメラを回そう、ヘリからメル・ギブソンをぶら下げて撮影しよう、デカいトラックを装甲車にして改造車をぶっ壊そう、ヤバイツラした役者をどんどん起用しよう。など。
映画の先人が西部劇でやってきたものを、馬から車に変えるだけで、こんなにも面白くなるなんて。人間も動物も車も全て汚く見せようとする、その精神は、もともと人間に備わっている本能なのだと思います。狩りをしてた頃の本能。ドロドロになって走り回る本能の映画が好きなのか、社会的な人工的なもので構成された小綺麗な映画が好きなのか。映画とは究極の所、このふたつに分かれるんじゃないでしょうか。日本映画史上に輝く黒澤明監督の「羅生門」や「七人の侍」、深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズは圧倒的に本能・野性側の映画だと思うのです。汗くさいダイナミックな面白さですね。
ジョージ・ミラーの精神に乗っ取ったメル・ギブソンが監督作品「アポカリプト」を発表した時は
「おかえりなさい!はやくジョージ・ミラーも帰って来て!」
と心から願ったものです。まさか21世紀になった今、再びスクリーンで「マッドマックス」最新作が拝める日が来るなんて。しかも内容は汚いまま、野性本能は剥き出し、類似作品に終止符を打つ怪物級で。
劇場に足を運び、オープニングでワーナーのマークとV8エンジンの爆音を聞いた時、泣きそうになりました。
「おかえりなさい!ジョージ・ミラー先生!」
「怒りのデス・ロード」は、「サンダードーム」で失敗した悔しさ、いら立ちが詰まっていました。おそらく世界中のファンから言われたのでしょう。「サンダードーム」はガッカリした、と。ジョージ・ミラーは世界一の負けず嫌いだったのですね、70才にして雪辱を晴らしたのですから。「怒りのデス・ロード」は最も面白い「2」を21世紀ノンストップ型にリニューアルしての登場だったので、当然ながら石原の記録が更新される運びとなりました
20世紀映画の頂点が「マッドマックス2」
21世紀映画の頂点が「マッドマックス 怒りのデス・ロード」