「ホムンクルス」砂の女子高生論
「ホムンクルス」砂の女子高生論
評論/石原貴洋
山本英夫先生コメント付き!
同類・同胞・同種族と言った言葉があります。
人を殺した事のある人間は、人を殺した事のある人間を見分ける事が出来るそうです。
いかにもヤクザみたいなオラオラ系の人間ではなく、いつもニコニコしていて温厚で友達が多く、しょっちゅうホームパーティーを開いているような誰も人殺しだと思わないような者が人殺しだったりもします。人を殺した事のある経験者から言わせると「同類さん」は、全身から発せられる何とも言えない独特の感じがあるそうです。目が語る、とはよく言われていますが、究極は目ではなく、全身から出ているオーラがあるそうです。
それと同じで無類の女性好きで性欲が強すぎる男性も、自分と同等かそれ以上の性欲の持ち主がすぐ分かるそうです。同性愛者同士も、すぐ見分けが付くそうです。自分と同じハートを持っていたり、自分と近いハートを持っている人を見付けると「あ、たぶん同類さんだ」と気付いた事のある方はいるんじゃないでしょうか。
同類さんならば、そういう話も不思議ではありませんが、例えば自分は音楽はロックが好きだけど、クラシックはたまに聴くくらい、それでもクラシック好きの人間は初対面でもすぐ分かる。という段階になってくると、まあまあ凄くなってきます。さらに、レベルを上げると、普段暴力は振るわず我慢強くてよっぽど屈辱を受けないと手を出さないという人間が、駅の改札口から出てくる人間の中から現在DVをしている人間を間違わずに5人選びなさい、と言われて5人キッチリ選んだとすると、それはもうホムンクルスの能力です。自分には少ししか「その要素」がないのに、他人の感覚とリンクする事が出来る、理解する事が出来る、なんて人がいたら驚きですね。世界のあらゆる諜報機関の中には、そういう能力を持った人間はいるでしょうけど。
山本英夫先生が描いた漫画「ホムンクルス」は、そういった能力(他人の心の歪みが実際に見えてしまう)を持ってしまった主人公の物語です。フィクションとして描かれていますが、僕はギリギリ有り得る話だと思っています。僕はもともと好奇心が強く、人の話をよく聞き、よく人に質問をしてきました。なぜ? どうなってるの? なんでそうなるの? そういった質問は山ほどしてきました「ホムンクルス」の伊藤のように、「信じるところから始めましょう」の精神で聞きまくっていくと知らない世界がどんどん広がっていきました。宗教やオカルトや都市伝説の類ではなく、現実の話でです。
現代では非科学的とされるものの中にも、科学的に解明されてないだけで、その解明されてないとされる「もの」を使って豊かに生活している方もいます。一般人が聞いたら「そんなもん、ある訳ねえだろ!」って事でも実際にあったりするのが、この世の不思議です。僕自身、そういった「もの」をわずかながら使って映画を撮ったりしています。まだその世界では幼稚園か小学校低学年レベルですが。僕の話はさておき。
「ホムンクルス」の主人公・名越は、人々の常識のパターンから外れてカーホームレスになった所から物語が始まります。人間を客観的に「見る」にはカーホームレスは打って付けのポジションと言えるでしょう。集団に属すると、どうしても見えにくくなるのが人間というものです。人間を見る物語を構築するために主人公をカーホームレスという設定にする所が、山本先生さすがでございます。
ホームレスと言っても、いろんな人間がいて、「ホムンクルス」の公園に登場するホームレスのおっさんたちは、人間のプライドを捨てていない人たちでした。そのおっさんたちは、主人公・名越の事を「あんな所に車 停めてコッチ(公園)の世界にどっぷり足つっこむのビビってんだもん」と皮肉を込めて言っています。これも非常に重要な事なんですが、名越はアッチ(社会)にもコッチ(公園)にも馴染めない、どこにも属する事が出来ない本格的な変わり者として描かれています。
ホームレスにも集団があり、その集団から外れた仙人のようなホームレスも存在し、しかし仙人のようになってしまうと会話をせず言葉を忘れ、人間を見なくなってしまい、ホムンクルスを見る能力からはかけ離れてしまう。そう思うと名越のカーホームレスというポジションは、車のギアで言う所のローギアでもハイギアでもなく、ドライブギアでもバックギアでもない「ニュートラル」だと思います。テンションは高すぎでも低すぎでもなく、妙に明るい訳でも暗い訳でもない、さらっと自然体の状態を保てる人、そういう人が「見る」という事に長けているようです。
山本先生とは何度かお会いさせてもらっていますが、とても自然体な方で、自分が暑苦しい人間だなと思ってしまうほどでした。
ちなみに僕が思う、人を「見る」のに向いている職業は、教師、医師、接客業です。人間に興味や関心がない者が接客業をすれば、ただの無愛想な店員になっちゃうだけで済みますが、教師、医師はそうはいきません。人間に興味や関心がない者は、教師、医師になっちゃいけないと思います。生徒や患者さんはたまったもんじゃありません。人とコミュニケーションを取るのが嫌いなのに(苦手なのは克服すれば良いので問題なし)、今まさに教師や医師の資格を取ろうとしている学生さんは止めた方がいいですよ。人間に対して失礼ですから。そういう方は物を扱う仕事に就けば良いと思います。
そういった人を「見る」のに重要な職業に就いておきながら、人間に興味や関心がなく、あるとすれば「金」と「自分」と「性欲を満たしてくれそうな異性」のみだとすれば悲しい事だと思います。そういう人は自分が分かっていないんでしょう。
「ホムンクルス」コミック3巻で主人公・名越が、砂の女子高生について
「本来の自分がないってことか・・・・」
って言ったのに対し、伊藤がチッチッチッと否定して
「本当の自分がわからないんでしょうねえ」
と言っています。
自分の事が「ない」のではなく、「わからない」のだ、と。このやり取りは、ホムンクルスにおける核心的な会話と言えるでしょう。ありきたりな薄っぺらい人たちは、個性が「ない」のではなく、自分が「わかってない」だけなのだと思います。じゃあ、どうせればいいのか? 簡単なようで難しい話ですが、自分の心のフタを外す事ですね。それは物心つくレベルまで遡る必要があるかもしれません。「ホムンクルス」の伊藤は幼少期の時点で女装や美に目覚め、美の象徴としてグッピーを飼い始めましたが、成人した現在ではその記憶がすっぽり抜け落ちていました。父親の妨害が入っていたのですね。
「本当の自分がわからないんでしょうねえ」
と言っていた伊藤本人が自分の事がわかっていなかった。これを読んでくれているあなたも、一度自分を問い直してみて下さい。遠い過去に、自分が本当に興味あったものを今現在フタをしてしまっていないか?
「あった」はずの自分が、何かに負けて消えてしまい「わからない」状態になっている、あるいは「忘れてしまっている」自分がいるかもしれません。誰も伊藤のことを笑えないのです。
「ホムンクルス」コミック3巻~6巻に登場する砂の女子高生は自分の事が分かっていませんでした。そして何よりも恐ろしい事に女子高生の母親も自分の事が分かっていませんでした。常識と世間体のみで構成された母親は自我がなく、血と肉で出来た世間体というバケモンです。世間体だけで生きているから、娘を「見ず」に世間体だけを強要し、娘は実感がなく記号の砂のバケモンになってしまいました。これ、はっきり言ってしまうと、現代日本人の40%くらいは、この図式に当てはまると思います。
「勉強しなさい」という親は言い換えたら「自分に自信がありません」と言ってるようなものですね。自分に自信がない、社会に打って出る能力が何もない(本当はあります)と思い込んでいるから、世間体の勉強というワードになるのでしょう。自分の事が分かれば、人に言われなくても自分に必要な分野を自ら勉強するもんです。そう思うと、自分の子供をちゃんと「見ている」親は実際にどれだけいるのでしょうか?
例えば、子供は陸上が好きで素質があるのに陸上をさせず無理矢理ピアノを習わせている親がいたとします。例えばですが、こういう無茶は日本人は特に多いと思います。陸上が好きなのを忘れさせて、無理矢理ピアニストを誕生させても、それはホムンクルスのバケモンが弾く恐怖の旋律となる事でしょう。
日本は先進国の割には未だに自殺者が多く、生きるのに息苦しく感じる人が多いのは「同類さん」が多すぎるからでしょう。毎日が楽しく有意義な日々を過ごす「同類さん」が多い国なら、また話は別でしょうが日本の場合は、個性を無理に打ち消して好きな事や、やりたい事を否定して自分がわからずホムンクルスになった「同類さん」の巣窟だから息苦しいのです。東京の地下鉄に乗ってみなさいよ、ホムンクルスのバケモンだらけですよ。
自分の好きな事に鈍感な日本人よ、早く目を覚ませ! 気が付くとホムンクルスのバケモンになってるぞ!
山本英夫先生コメント
心奥底に潜んでいる〝それ〟をデブ監督が、
映画作品にどう反映するのかは石原監督しだいでしょう。